2019-03-12 第198回国会 衆議院 総務委員会 第8号
この交渉覚書の冒頭では、新東京国際空港の開港に伴う航空機公害防止の諸施策に関して、住民側の、三里塚空港から郷土とくらしを守る会、平和塔奉賛会、三里塚農民組合と、政府側の運輸省及び設置管理に当たる新東京国際空港公団は、千葉県知事のあっせんにより二回の交渉と十数回の事務レベルの折衝を積み重ねた。
この交渉覚書の冒頭では、新東京国際空港の開港に伴う航空機公害防止の諸施策に関して、住民側の、三里塚空港から郷土とくらしを守る会、平和塔奉賛会、三里塚農民組合と、政府側の運輸省及び設置管理に当たる新東京国際空港公団は、千葉県知事のあっせんにより二回の交渉と十数回の事務レベルの折衝を積み重ねた。
この約束は、県知事及び関係市町村長とも交わされ、同時に、一九七二年四月十五日に、三里塚平和塔奉賛会会長・日本山妙法寺三里塚道場主任及び運輸大臣、千葉県知事職務代理者、新東京国際空港公団総裁の四者で締結した取決め書にも記されています。
こういう激烈な反対運動があって、突如、御料牧場があった三里塚、国有地がたくさんあるということで方針転換なされたようなのであります。詳しいことはわかりませんが、御料牧場があるということで、空港敷地の全体の三割、四割だったらしいんですけれども、これでできるということで地元に十分説明しなかったということで、こじれてしまったということのようであります。
これが闘争でも有名になりました三里塚地区でございます。この地区だけが、空港に隣接している地区の中で都市計画決定が打たれている。 この三里塚が空港の西側に位置をしているわけですけれども、この三里塚から空港に入るに当たって、ぐるっと南北どちらかを回らないと空港の中に入場ができないという現状がございます。
三里塚闘争含めていろいろな、それぞれの市民運動、反対運動にもかかわった方だというふうにもお聞きもしております。そんな面からいえば、農民の運動、さらには今の漁民の気持ち、その部分はやはりもっとしっかり受けとめていただきながら、このまま推移をしていくならば本当にもっともっとけが人が出てくるのではないか、そういうふうにすごく心配をしております。
それで、申し上げたように、この法案が一体そこに向かって一里塚なのか、二里塚なのか、三里塚なのか、あるいは〇・一なのか。そういう価値判断に立って、評価軸に立って今の質問に大臣にぜひお答えをいただきたいわけですが、いかがですか。
特に、実川副大臣と私は成田空港の問題について一緒に取り組んでまいりましたし、副大臣は、成田でお生まれになって、三里塚小学校そして成田高校をお出になり、成田の問題については身をもってずっと体験してこられた。そういう意味では非常に思い入れがあると思いますので、この問題については実川副大臣にお伺いをいたしたいと思います。
千葉県の成田空港、これは三里塚農民が反対運動をしました。そして、全国からこれの反対運動を応援するということで四万人、五万人という支援学生が集まって、農民、学生と警察隊が、四万人対四万人とか、とんでもない衝突、乱闘、そして死者が出る、こういうことであります。年配の方は御記憶に新しいと思います。 同時に、大阪空港の方は、多分現在と比べればジェット機の騒音が倍以上、非常に大きな騒音が出ました。
これは当時の丹羽運輸大臣、今井新東京国際空港公団、友納千葉県知事、これらと三里塚奉賛会というところが合意した文書。
今から三十数年前ですが、実は、芝山や三里塚の農民と一緒に成田空港の建設についての運動にかかわってきた一人として、大変感慨深いものがあります。もちろん、瀬古先生が言われたように過激派では断じてございませんが、そういう意味も含めて質問させていただきたいと思っております。
ということは、私は生まれも育ちも、今の空港の地であります三里塚で生まれ育ちました。そういうことで、初めて今の空港の地に、閣議決定でこの場所にするということをニュースで聞いたのも空港の地でありました。そういうことでよくはっきり覚えておるんですけれども、大変な騒ぎになったことを覚えております。
つまり、一里塚の次は二里塚、三里塚とあるんだということですね。よろしいですね。 具体的にそれは何ですか、具体的に。私、自分の意見は後で言いますけれども、総理、どうぞ。具体的に言ってください。
そして、ついでですから私も申しますが、日本の警察が戦後、昭和四十六年、一九七一年に成田で三里塚の警備をしておりますときに、警察が銃を持って何か悪さをしちゃいかぬ、世論上よくないということで、丸腰で現場へ行かせましたところ、極左の大集団に襲われまして、三人の警察官がなぶり殺しになってしまったと。
日笠勝之君 その中で、新東京国際空港でございますが、この空港の軍事利用は一切許さず、当空港周辺の空路及び管制空域の設定においても軍事を優先させないという住民側の要求があり、新東京国際空港公団の回答として、新空港は純然たる民間空港のためのものであり、軍事利用させることはない、軍事施設と思われるものの設置も一切認めない方針である、こういうふうなやりとりがありまして、一九七二年九月二十日に新東京国際空港公団と「三里塚空港
○政府委員(岩村敬君) 開港前に、当時の運輸大臣、そして千葉県知事、それから公団総裁、それと地元の関係の三里塚平和塔奉賛会会長との間で、安保条約及びこれに基づく地位協定の存在にもかかわらず、これを軍事的に利用することは認めないという取り決めがあることは事実でございます。
あの緑豊かな三里塚、そして御料牧場、あそこを一気に空港にしていく、その辺の内容はよくわかりませんけれども、果たしてどうなんだろうということを千葉県の人たちも多分考えたと思います。
そして、この問題が、三里塚闘争、そして薬害エイズ闘争のようなことにならないようにしていただきたい。慎重なる回避というものはそういうことを私はお願いしているわけです。そして、後になって、ああだった、こうだったと。 そして、今研究者の方々が調査をされるということですけれども、通産省にとって、国にとって都合のいい学者ばかり集めるのはやめていただきたい。
それでは往復時間がかかってしまいますから、地元自治体にお願いをいたしまして、空港の中に常時救急車を一台置くという体制を一昨年の四月からとらせていただいておりまして、これは地元の三里塚消防署、ここの分室という形で救急車を置かせていただいております。したがって、これによりまして、往復のうちの往の時間だけは節約できるという体制をとらせていただいております。
三里塚の特別のもので、救急車というものを設置した。しかし、その設備、大型ドクターカーとかいろいろなものがあろうと思います。まず第一弾として救急車が配備された、これは大変結構なことです。
実は、私もあの成田の地域、三里塚で生まれ育ちました。そういうことで、あの地に閣議決定されたというとき大変な騒ぎになりましたことをいまだに鮮明に覚えております。あのときはたしか、賛成派の人あるいはまた条件賛成派また反対派のいろいろな形で別れ別れになりました。その後、御承知のように十二年かけまして工事が完成しました。そのためにいろいろな形で不幸な出来事もあったかと思います。
そこで、地元自治体の方の協力をいただきまして、空港の中に三里塚消防署の分室を設けまして、空港の中に一台救急車を常駐するという措置を既にとっているところでございます。また、空港の中にクリニックを、二カ所でございますが設けておりまして、そのうち一か所は、二十四時間いつでも医者と看護婦がいるという体制をとっているところであります。
しかしながら、地元で大変激しい反対運動が起こっておりまして、地元の知事さんとも相談した結果、これではまずかろうということでるる検討をしたのですが、まず面積を半分にし、それから、位置を国有地、県有地なんかが多く利用できる三里塚の位置にしようということで、昭和四十一年七月四日に閣議決定されたものでございます。今先生のお話がありましたものでございます。それが現在の計画でございます。
さて、先ほど概要説明の中でいわゆる過激派の問題が出ておりましたけれども、成田空港というと、当初は三里塚闘争に象徴されるように過激派の歴史だったと言っても過言ではない面があったと思います。最近はその過激派につきましては今御説明のとおりのような状況だというふうに承っておりますが、念のため、警察庁の方からこの過激派の動向等についても御意見をちょうだいできればと思っております。
一方で、成田空港三里塚の方は、運輸省の御努力によってテーブルに着くというふうなこともあるわけですし、東西冷戦も終わり、今新しい時代が来たという中で、そういう話し合いの方向で進めていかなければならないと思うわけであります。
昭和四十一年七月に御承知のように新東京国際空港の建設の位置が成田市三里塚に決定をされました。社会党はその年の第二十八回の党大会において空港建設の反対決議を行い、反対闘争方針を決定されておるのであります。 それは、一つ、国会における闘いはもちろんのこと、現地での実力阻止を含め断固粉砕するまで闘う。